人気ブログランキング | 話題のタグを見る

ただいま研修中です


四月いっぱいはひたすらに語学。
正課だけで一日320分間の語学というのは、想像していたよりも
頭を酷使させられます。
とはいえ、全くのゼロからのスタートなので、やるしかないわけで。
ということで今もフラ語を口ずさんでいます。
ちなみに配属は未定。
今のステータスはそんな感じ。

とはいっても5月いっぱいくらいは週末には余裕があるので、気が
向いた人は飲みにでも誘ってください。
行けるかどうかは知らないけど。
# by traegeryo | 2007-04-17 22:28 | 日々

近況報告?


いやはや、忙しさにかまけて二ヶ月近く放置してた。
まぁ自分のブログだからいいんだけど。

とりあえず、九月に北京に行って議論した結果が3月号の論座に
掲載されました。
232ページから載ってます。
「京論壇」。
読んでて懐かしくなった。
次にあの北京大生たちと会うのはいつになるのやら。
個人的にりゅーほんにはマジで国家主席になってもらいたい。
ちなみに自分は安保分科ですた。
しかし「もう一つの卒論」はないだろう・・・

あと、そのままパラパラ論座をめくってたら、盟友・カズが
新しい本を出した模様。
『巨大人脈SNSのチカラ』
教えてくれてたら即買ったのに。

今は仕事の追い込みで一日中PCに張り付いてます。
# by traegeryo | 2007-02-08 15:02 | 日々

生きる糧・原動力


お受験はさすがにしていないものの、中学から有名私立に入り、成績はずっと
トップクラス。
大学受験も現役でパスして、難関といわれる大学に入った。
大学でもそれなりにマジメにやって、単位不認定とか留年の危機なんかとは
無縁だったし、就活も成功して、世間的には一流と言われる企業で働いている。

こんな僕の経歴を聞いて、「負け組」だとか「かわいそう」だとか言う人は、あまり
居ない。
たいていは「すごい」とか、「エリートだ」とか、まぁそういう反応が返ってくる。


たしかに、僕は小さいころから勉強がよく出来る方だったし、自分でもそのこと
はわかっていた。
友達は、「なんで分数の割り算では分子と分母をひっくり返してかけるんだ?」
とか「他の地方で何が名産品でも僕には関係ない」とか、いろいろ文句を言って
いたけれど、先生が言ったとおりのやり方をすれば問題は解けるし、覚えてしま
えばテストでも点が取れるんだから、僕はそれでいいと思っていた。

小学生なんて単純なもので、先生が「難しい」といった問題が解けて、テストの
点がいつも良ければ、級友たちは僕に一目置いてくれた。
そしてそれは、実は中学や高校でも変わらなくて、大して運動神経が良いわけ
でもない僕にとって、校内テストや模擬テストの結果や、それを見た両親や級友
たちの視線は、大いに自尊心を満たしてくれるものだった。


この会社に入って、もうすぐ三年になるけれど、実を言うと最初はすごく戸惑ったし、
怖かったんだ。
仕事では、先生や教授に教わったことをそのまま書くための解答用紙なんか
もちろん無いし、研修で習ったことをそのまま繰り返していて上司に怒られた
こともあった。
だったら研修でもっとしっかり教えてくれよ、とも思ったけれど、結局僕は何も
言わなかった。
誰も教えてくれないなら、自分から聞いて勉強しようと思ったんだ。
反抗してもっと怒られるより、早くデキる社員だって認めてもらった方がいいから。

そうやって頑張ってきて、今ではいちおう、僕は若手の中では出世頭ということ
になっている。
上司の覚えもめでたい(お見合いをしきりに勧められるのが難点と言えば難点だ)。
でも本音を言うと、成功すればするほど、あるいは褒められるほどに、不安も
大きくなってきてるんだ。
いつか何か失敗して、今の評価が全部崩れ落ちてしまうんじゃないか、って。


結局、僕は小学生のころから変わっていない。
人に認められたいから、むしろ人に認めてもらわないと自分自身の存在さえ
信じられないから、自分に鞭打って働き続けている。

そして僕にはまだ、それ以外に頑張る理由が見つからない。
見つからないんだ。





(011 生きる糧・原動力)
# by traegeryo | 2006-11-18 19:20 | 百題

ド・ゴール、小泉、安部 ―構造とアクター(エージェンシーというべきかも)


少し前の話で、しかもマニアックな話題になるが、お許し願いたい。

参加しているある勉強会で、友人の大学院生が研究報告を行った。
題材は第二次大戦~戦後構築期のフランスであり、ド・ゴールという個人が
第二次大戦後の戦後構築に与えたインパクトを検証するものであった。
詳細な内容は、分かる人は分かると思うので本人に聞いて欲しい。

そのとき私が彼にぶつけた批判は、概略以下のようなものであった。

「ド・ゴールのキャラの特異性や、大戦期にフランスが置かれていた状況が
従来信じられてきたような単純なものではないことは分かった。しかし、そこから
すぐに、ド・ゴールのキャラクターを独立変数としてWW2の戦後構築の変遷を
説明するのは難しいのではないか。まず構造の分析を行うべきである。なぜ
なら、構造的制約が大きくて個人の活躍の余地がないという可能性があるから
だ。ド・ゴールという個人に焦点を当てるのは、構造分析を済ませてから
でいいのではないか。」

基本的に今でもこの考えは変わっていない。

たとえば、ある企業の属する業界に規制がかかっており、同業他社もそれを
遵守している。自社の業績も問題ない。
その中で、その企業が規制の遵守を続けるならば、それは概ね構造の制約
に従った選択であり、それを説明するために個人ファクター、例えば社長の
パーソナリティに注目する必要はあるまい。

しかし、もしこの企業が敢えて規制の抜け穴をつこうとしたような場合は、
事情が変わってくる。
構造的には遵守行動が続くように見えるのに、なぜかアクターは予想されるもの
と異なる選択をしたわけだ。
そうなると、構造以外のファクター、ここでは個人ファクターに光を当てる意味
が生じてくる(むろん、その個人ファクターに説明力があるかは別問題だが)。

やはり、構造に対する分析が先行するように思われる。


ところが先ほど、打ち合わせから戻る地下鉄の中で面白いことに気付いた。
もしかすると皆とっくに気付いているのかもしれないが。
端的に言うと、観察者が想定する構造は、その中心にどの個人ファクターを
想定するかで変わってくる可能性があるのだ。

わかりやすい例は、小泉・安部の新旧両首相をとりまく構造的制約だろう。
ここで仮に、日本の首相を制約する構造的要件を与党との関係・国民の支持様態・
日本経済の状態と考えてみよう。

抽象的に考えると、与党との関係が悪く、国民の支持に依存している政権は
大衆迎合的な政策を採り易いと思われる。一方、与党によって強力に支えら
れている政権は、国民の期待を少々裏切っても短期的には進退問題には
ならないため、政党の論理で政策決定することが多くなるだろう。
また経済状態に対し多くの人が危機感を覚えている場合、トップダウン式の
意思決定は多少痛みを伴うものでも受け容れられやすいが、対して危機が
去った後は議論を積み重ねることが重視される。

さて小泉前首相は、与党自民党と内閣の擬似対立を作り出し、勧善懲悪の政治ドラマ
を国民に見せることで支持を調達した。支持があるからこそ、政権基盤であるはずの
与党との対決を持続することもできた。背景には、「失われた十年」を経験し、
待ったなしと言われた日本経済の惨状があった。

他方、安部首相は旧来的な自民党の論理にそれなりに配慮した人事を差配し、
与党との関係は表面上良好である。支持率もそれなりに高い。
訪中・首脳会談を実現させ、郵政で離党した議員の復帰を受け入れる姿勢を
見せるなど、与党の論理に沿う選択がまま見られる。
日本経済はいざなぎ越えを噂される長期景気の中にあり、財政再建よりも
分配のやり方に衆目は移行している。

このような両政権の描写は、概ね上記の抽象論に合致するものである。
しかしよく考えてみると、先に構造として設定した三点のうち、前二者は所与の条件
というよりも各首相の特色との関係で形作られたものではないか。
となると、そもそもはじめに設定した構造要件自体の妥当性が問われることになる
が、それは本論の主題ではないので措いておく。

最も重要な点は、アクターから切り離されたものとしての構造を想定できるのか、
ということにある。
小泉政権末期と安部政権最初期において、客観的に観察可能な政治情勢に
ほぼ差は存在しなかったはずである。
にもかかわらず、安部首相が生まれた瞬間に、日本政治を制約する構造は大きく
変化した。
より正確に言えば、日本政治を説明するときに設定される構造が、大きく変化した。

してみると、構造分析が個人分析に先行すべし、という先の命題の妥当性も怪しく
なってくるように思われるのだが、どうだろうか。
諸学兄の意見を伺いたい。
# by traegeryo | 2006-11-14 18:56 | 思考

数学ができない、ということ


先日、同期になるコと話していて、自分が数学が苦手だったということの意味を発見した。
ちなみに彼女は小生と同大学同学部出身である。


さて、一口に「数学ができない」と言っても、その程度は千差万別である。
その中で我々の位置はといえば、試験の点数で見ればできる方の「できない」であろう。
実際、自分にしてもある模試で数学4点(80点満点)という快挙を成し遂げたことも
あるが、本番の受験ではきちんと2問は解けた(と思う)。

そういうと、我々が「数学ができない」と言うこと自体に対して疑念をもたれるかもしれない。
謙遜して見せつつ、実は周りを見下しているのではないか、と。
まぁ客観的に見てそう理解されるのも分からないでもないが、しかし他ならぬ自分自身の
自己認識として、私たちは「数学ができない」のである。

おそらく、それは偏に我々が「数学の問題を解く」勉強をしてきたからである。
言い換えれば、「数学」を学ぶことができなかったのだ。

説明しよう。

高3夏(と記憶している)の模試で4点を記録した後、本番までに小生が何をやっていたか
といえば、ひたすらに問題集の問題を潰して、解答の方法を覚えていた。
明確にマニュアル化したわけではないが、問題をパターナライズし、それぞれに適合する
対応(解法)を頭の中のハードディスクから読み出す訓練をしていたのだ。
余談ではあるが、うまく問題をパターナライズできなかった「場合の数」や「確率」は苦手で
あった。

できるだけ多くのパターンを覚え、本番に出題される4問のうち、できれば2問を既知の
問題にしておく ―それが小生の考えた合格への戦略であった。
こと受験という観点からすれば、これは方法論上の誤りではない。
事実、このやり方で小生は幸いにも合格点に達することができた。

しかし、当然の帰結として、パターナライズと暗記の限度を超えた問題に対しては
手も足も出なくなる(例えば場合の数であり、楕円やら何やらである)。
そして、そのような「手も足も出ない」問題をいかに素早くそれと察知し、無駄な時間を
費やさず「手の出る」問題を完璧に仕上げるか、の方が受験では重視される。

しかし、である。
これで「数学を学んでいる」と言えるのだろうか?
否々、これでは「数学の解法を覚えている」に過ぎない。
問題を解けるようになっていく快感はあれども、世界の一部を記述する言語としての
数学を理解し、楽しむような感覚を持つことは、できなかった。

だから厳密に言えば、小生は数学の楽しさを知らない。
だがそれを間接的にではあれ感じたことはある。

時期は忘れたが、高校で机に向かって戦略通りパターンの暗記に励む私のところに、
試験でも恐ろしく数学のできる男が寄ってきた。
そして私が取り組んでいる問題を見るや、
「この解答は不細工だね。俺がもっとキレイな解き方を見せてやる」
などとほざいたのである。

付き合ってられないので、私はとうぜん無視したのだが、奴さんはめげるでもなく
プリントの裏に何事かを書き始めた。
正直、多少計算を工夫して簡略化したようなモノだったら大いにバカにしてやろうと
思っていたのだが、期待は大きく裏切られた。


もう五年以上も前の話で、実際にどんな問題にどんな解法を示してくれたのか、
今では思い出せないけれど、それを見た時に味わった驚きと苦々しさは覚えている。
確かヤツは、ご丁寧にも自分の解法がいかに美しいかを説明してくれたはずだが、
その内容よりも心底楽しそうな声の調子が印象的だった。
ムリに表現するならば、数学の世界で遊びまわる子ども、といった感じである。

実は私が自分に理数系の才能がないと判断したのは、模試で4点を取った時では
なくて、まさにこの時であった。
当時はこんなことを考えていたわけではないが、少なくとも自分にはこうやって数学
を楽しむことはできないということだけは明らかだったのだ。


そんなわけで、小生はやっぱり「数学ができない」人間だし、実は物理もできないのである。
そしてどうもこれは小生に限った話ではなく、文系大学生のほとんど、もしかすると理系
大学生すらもが陥っているワナのように思われる。
少なくとも冒頭の同期は、かなり身に覚えがあるようだった。
# by traegeryo | 2006-11-13 21:20 | 思考